Twitterで話題の4コママンガ「100日後に死ぬワニ」が今日、最終話でした。
書籍化・映画化が決定し、まさにTwitterドリームとも言うべき流行りかたをしているなぁ、と思っています。
熱心に読んでいたわけではないですが、最終話(結末)を迎えると思うと、気になっちゃいました。
で、ふと思ったのが、なぜ100日後に死ぬワニはこんな話題になったのか。
コレについて本気出して考えてみた結果、3つの理由から「制限」の効果をいろんな方向から見せつけられたんだという結論に至りました。
その話を共有したいと思います。
「100日後に死ぬワニ」の概要
まず、「100日後に死ぬワニ」の概要を整理すると、
- 主人公のワニの日常を描くマンガ
- 100日後に死ぬことだけ決まっている
- たまに意味深なセリフ
こんなマンガです。概要を面白く書こうと思っても、本当にコレだけ。
なんで流行ったんだろう…。と思っちゃいます。
(だからこそ、考えるに至ったわけですが。)
「制限」の効果をいろんな方向から見せつけられたという結論は
下記の3つの理由から考えました。
- 100日の制限が特別感を生み出した
- 「死ぬ」というワードが、100日(時間)と密接につながったから
- 読者全員に「あなたもワニだ」と気付かされた。
ひとつずつ、紐解いていきます。
100日の制限が特別感を生み出した
仮に「100日」制限がなかった場合、どうだったか。
間違いなく特別感が失われると思うんですよね。
「主人公のワニの日常を描くマンガ」であり、新聞の4コママンガみたいな息抜き的な、差別化のできないマンガになっていたんじゃないかなと。
例えば、サザエさんが「100日後に死ぬ」サザエさんなら、より興味を引きますよね。
ちょっと話は逸れますが、ニューヨークに「Tsurumen Davis」っていうラーメン屋があります。「1000日で閉店する、200日で全メニュー変更」っていうルールでやってるんです。
その制限に特別感を抱くわけですが、それに近いことを”100日後に死ぬワニ”がやっているんだろうなーと思いました。
「死ぬ」というワードが、100日(時間)と密接につながったから
結末をタイトルに持ってきたのは、非常に大きな制限のプラス効果があったな、と思います。
「100日で終わるワニ」のマンガと
「100日で死ぬワニ」のマンガなら、
やっぱり「死ぬ」ほうが、結末がはっきりしてますよね。
“終わる”だと、「どう終わるの?」って考えますが、
“死ぬ”だと「●●なのに、どう死ぬの?」って考えちゃいます。
読みかたのレベルが1段階深くなってるんですね。
さらに、100話で死ぬと、切り離された時間軸ですが、
100日で死ぬ だと、現実世界と一致してきて、急に近くなります。
急に近くなると、どんどんのめりこんでしまいますね。
読者全員が「あなたもワニだ」と気付かされた。
- 100日の制限が特別感
- 「死ぬ」というワードが、100日(時間)と密接につながった
この2つの理由を合わせて、”ワニの日常”を読むマンガ。
これらを情景で思い浮かべると、一つの答えが読者から出てきます。
「人間もいつか死ぬんだな」
「なのに、毎日はめっちゃ日常」
「それ、自分のことじゃん…!」
100日後に死ぬワニ=「●年後に死ぬ私」なわけで、ワニを自分の鏡として読んでしまう構造になっていたんだと思います。
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ということで、まとめると、
[aside type=”boader”]まとめ
1.100日の制限が特別感を生み出した
2.「死ぬ」というワードで、100日(時間)と密接につながった
→ 結末に制限がついた
3.読者全員に「あなたもワニだ」と気付かされた。
→ 自分のことへと制限されていった[/aside]
「制限」の効果をいろんな方向から見せつけられたんだと結論つけました。
考察シロ ( 伸び代の考察版)があったり、
Twitterで手軽に読めて…みたいな理由ももちろんですが、本質的には制限の力を存分に使った作品だと感じました。